旅人が語る物語
椎名水鶏
1
何かを間違えた。
ここに来るまでのどこかで、何かを間違えたんだ。
曲がる場所を間違えたか、脇道に逸れてしまったか。
道に迷ったと気付いて引き返した時、方向感覚が狂ったか。
何にしても、これは間違いなんだ。でなければ僕がこんな所に進んで来るはずがない。
「で、旅人さん? いくら持ってんの?」
今僕は、カツアゲされている。
「はいはい。言い分は分かった。道に迷って、気付いたらこっち側に来てて、強盗にあって車は盗まれた、と」
僕を囲むチンピラの一人が楽しげに僕の話を要約する。色素の薄い髪は無造作に一つに束ねられて、毛先が胸元で揺れている。
栄養状態が悪いのか体は痩せているが、長い睫毛に縁取られた目は淀み、直視したくないくらいの威圧感を放っている。
どう見ても年下にしか見えないが、それでも僕は気圧されてしまう。ただでさえ一生会いたくないと思っていた人種なのだ。それに状況も状況だ。僕は早くここから逃げ出したいだけなのに。
「ってことは、現金他金目のものは無事ってことだよね? 旅人さん」
少年はさらりと酷いことを言ってのける。これを生業としているのだろう、随分慣れた様子だった。
僕は背広の内ポケットに収まった財布の感触を確かめる。現金は無事だ。これは僕が無事に帰る為の資金なのだから、誰かに渡す訳にはいかない。
「腕時計なら……身につけていたから」
既に少年達の視界に入っているであろう腕時計の存在を隠し通すことは不可能だと踏んで僕は呟く。財布は、現金は死守せねばならない。時間くらいなら腹時計とか太陽の傾きとかで大体は分かるはずだ。安物の時計だが彼等には関係ない……
「時計って、旅人さんの腕についてるそれ? やだよ、やすもんじゃんそれさ。舐めてんの? 俺がガキだからって舐めてんの?
そんなのここじゃ売っても五万くらいにしかなんねえよ」
ばれてた。というか、待て。五万? 買った時より倍以上に跳ね上がってるじゃないか!
僕は思わず安物の腕時計に手をやった。資金源だ。もしかしたら僕が掛けている眼鏡とか、手帳に挟まっている万年筆とか、かなり高値で売れるんじゃないか? それだけ金があれば、無事に家に帰ることも可能になる。
その大金を少年が蹴ったことも忘れ僕は帰りの交通費を計算し始めていたが、唐突に僕の眼前に痩せた掌が迫った。
「で、いくら残ってんの?」
「え……だから、この時計しか」
「嘘」
僕を見上げる少年の顔に人の悪い笑みが浮かぶ。いや、少年自体悪い人だが。
「まだ何か隠し持ってるでしょ? 服の中とか、鞄の中とかにさ。何持ってんの?」
鞄を抱え込む。出張先で使用する大事な資料が詰まっている。外部に漏らす訳にはいかない。
「本当に……何もないんだ。鞄も空なんだ」
「じゃあ鞄だけで良いよ」
時計は要らないと言って鞄は要るのか? こっちの方が安物なのに?
「旅人さんの方じゃ大したもんじゃないだろうけどさ。ここじゃ布製品は需要が高いのよ。ここも関東とは言え夜とか冬場とかめっさ寒いからね。だからそのスーツとか、実は凄く高く売れたりする」
僕は少年の歪んだ笑顔を盗み見た。何かを企んでいる顔だ。彼は気付いている。鞄が空ではないことに。
財布の中身と鞄の中身を秤に掛けてみる。財布の中には……福沢様がいらっしゃったかどうか。秤は簡単に鞄の方に傾いた。
「……じゃあ背広だけ」
「いらねえよ」
財布ごと背広を渡そうと決心したが、少年は即決拒否した。何故だ。現金があることを主張すべきだったか。
「あのさあ、旅人さん。それで俺を騙してるつもり? ねえ、見え見えなのよ、考えてることとかさ。一個ずつ説明してやろか? 時計しかないってはじめ言ってたじゃん? でもさあ、アンタ余裕ぶっこいてたっしょ? これくらい取られても平気ですって顔してたんよ。鞄の中身はって訊いた時もさ、思いっきり抱えたっしょ。とっても大事な物ですって言ってるようなものでしょ、それ。しかもさ、スーツを選択肢に挙げたら速攻で脱ごうとするし。今何月よ? ほれ言ってみ?」
「え……と、十月」
「……あ、月訊いても意味ねえじゃん。いつが十月だ? まあいいや。取り敢えず、秋だろ? 寒いだろ? 夜とかどうすんのよ。アンタ南国の人? 俺さっき言ったよね、夜とか冬場とかめっさ寒いからねって。それでも凍死覚悟で上着渡すってどういう神経してんのさ」
つまり。と言って少年は唇に舌を滑らせる。血を吸ったかのように真っ赤な舌だった。
「その鞄の中――それだけ大事な物ってことだ。だべ?」
僕の周りを囲んでいたチンピラ達が一斉に歓声を上げる。四方八方から浴びせられるその声に僕は酔いそうになる。
「それで? 旅人さんは何を後生大事に抱えてるのかな?」
少年が一歩踏み出す。じゃり、と踏みつぶされた地面が鳴る。僕は一歩後退る。逃げ場はないと知っていたが、それでも動かずにはいられなかった。少年の圧力が凄まじかった。
「……金なら、渡す」
僕は消えそうな声を絞り出した。
「時計も、服も、渡す。……だから」
「鞄だけは見逃せって?」
少年は実に楽しそうに喉を鳴らす。まだ若いのに、ここまで擦れてしまうのはやはりこの環境だからか。
だとしたら――彼等は被害者だ。
犠牲者だ。
僕は必死で頷いた。無駄な足掻きだと知りながら。涙を呑んでひたすら首を縦に振り続けた。
「ははっ」
少年の口から哄笑が迸る。天をつんざく高い声だった。
「かはははははははっ――――面白ぇな、アンタ。はははっ」
少年の笑いにつられたか、周囲のチンピラ達も次々と笑い出す。四面を囲むは楚歌ではなく嘲笑だった。
「――――――――見逃す訳ねえだろぉが、っざけてんのかテメエ!!」
幾重の嘲笑を凌駕する少年の怒声。僕の目の前、笑っていた少年が豹変した。
人間って本当に青筋浮かべられるんだ、とかどうでもいいことを考えた。一瞬全てを諦めた程の恐怖。
少年の細腕が伸びる。襟を掴まれた。首が絞まる。息が止まる。意識が飛びそうになる。
憤怒に顔を歪めた少年が僕に向かって何か怒鳴り散らしている。だが僕は何も聞こえなかった。
少年の口の動きが、酷く遅く感じられた。
血色の悪そうな唇から覗く黄ばんだ歯。
蠢く舌が鮮やかすぎる赤い色を放っていた。
◇ ◆ ◇
「んな都合のいい話があっかボケっ。聞いてんのか、ぁあ?――て、気絶しちゃったよ」
背広の男を揺さぶっていた少年は「どうする?」と周りの仲間達を見回した。仲間達はケラケラ笑う。
「どうするって、自分でやったんじゃん」「あぁあ、かあいそーに」「やっちゃえば?」「やっちゃえって」「やれ!」「やれ!」
「いや、どっちの意味でよそれ」
無責任な仲間達の喝采に応え、少年は客人の襟を掴んでいた手を放す。崩れるように倒れた男はそれでも鞄を放さなかった。
「どっちでもいいんだけどさ。その前にお前等さ、この鞄の中気になんね?」
気になる! の大合唱。少年はすっと細い左腕を掲げてそれを収める。
「と、ゆーわけで。ひっぺがしちゃって」
その一言で倒れた男に少年達が群がる。数人がかりで男をひっくり返し、両腕を捉え、鞄を引きずり出そうと――
「……ねえ、レア。こいつ、かたい」
「あん?」
仲間に呼びかけられ、レアと呼ばれた少年はまだ火を点けてない煙草を咥えたまま男を見下ろす。
「まだ殺しちゃいないぜ?」
「いやいやそんな早く始まらないでしょシゴコーチョク」「こいつホントに気ぃ失ってんの?」「たしかめ」「どーすんの?」「ぶつ」「ける」
言うや否や男を殴り蹴る少年達。しかし男は目を覚まさない。そしてやはり、鞄も手放さない。
少年はマッチを擦りながら男を見下ろしていた。淀んだ目の奥に、僅かながら好奇の光が差していた。
「火点かねえし」
ぼやいて少年は咥え込んでいたマッチの箱を吐き出した。同時に煙草も地面に落下したが目もくれず、汚れたスニーカーで踏みにじった。
2
炊きたての白米の香りが鼻腔をくすぐる。
柔らかな光に包まれた空間。香ばしい味噌の香りが遅れてやってきた。
――こんなに早いなら昨日のうちに言ってくれれば良かったのに。
愛らしい声が耳朶を打つ。向かいに愛しい人が座っている。化粧っ気がないのは早朝だからか。それでも彼女はいつまでも若く綺麗だ。
――私? いいの。もう一眠りするから。食べてすぐ寝ると太っちゃうでしょう?
口元を押さえて控えめに笑う。鈴を転がすような綺麗な声で。
味噌の香りが迫る。熱を口内に感じる。まろやかな口当たりの味噌汁が食道へと抜けていく。
――それにしても急な出張ね。どこまで行くの?
――だからこんなに早いのね……。え? ううん、大丈夫。今日休みだったし。
――気をつけてね。だって……途中、あの場所の近くを通るんでしょう?
――もう何年も経ってるけどまだ復旧できてないんでしょう? いろいろ良くない噂も聞くわ。
――うん、そうね……ごめんなさい。変なこと言って。じゃあ帰れる日が決まったら連絡してね。貴方が大好きなもの作って待ってるから。
――私は大丈夫よ。貴方忘れたの? 貴方が一年間海外に行ってる間この家を守ったのは誰だったかしら?
――ねえ、本当に……気をつけてね。
あの場所には貴方を恨んでる人が沢山遺されてるんだから――
「違うっ!」
目を剥いて否定の言葉を叫んだ。違う、違うんだ、信じてくれ、お前だけは僕を――。目に入る光が薄暗いことに気付いた。
記憶を探る。僕は何処にいる。早朝に家を出て、車を北へと飛ばして――何処まで来た?
「チガウ?」
「うわっ」
唐突に人の顔が迫ってきて思わず叫ぶ。僕を見下ろすその顔は無機質な笑みを象っていた。まるでそれしか表情を知らないような――
「チガウ?」
至近距離で唇が蠢く。その奥、異常に発達した犬歯が牙のように覗いていた。それ以外の歯は、残っていなかった。
「あはははっチガウチガウ、チガウー」
何がおかしいのか、寝起きに僕が放った言葉を連呼してその子は走り去っていった。何だったんだと思いつつ体を起こす。何故か至る所が痛かった。
今いる場所を探る。車の中、では勿論ない。家を出る前にまた寝てしまった訳でもない。さっきのような子供は家の周りにはいない。それ以前に、車を運転していた記憶は残っている。それで――僕は何処にいる?
「こらこら、お客さんがいるんだからはしゃぐなって。え? チガウ? 何が?」
聞こえてきた声は愛しい人のものではなく、まだ幼さの残る少年のもの。その声に聞き覚えがあった。あの声は確か、気を失う前に聞いた――
「よ、旅人さん。ご機嫌いかが?」
「うわっ」
デジャヴュ。声の主の顔が至近距離に迫り、本日二度目の奇声を上げてしまった。
「うおい、きったねえな。唾飛んだ」
「な、え? な、何で……」
何で僕を恐喝した人がまだいるんだ? いや恐喝されてる間に気絶したのだからいてもおかしくはないが。
視覚情報を確認。コンクリート打ちっ放しの天井に切れかけた蛍光灯。僕が横たわっていたのは不衛生的なかびた寝台。即ち、屋内。
少年の周りに僕をカツアゲしていた時にいたチンピラ達はいない。手法を変えてカツアゲする気なのか、それとも。
「放置してきても良かったんだけどさ。まず、俺が狙ってたもんが取れなかったからアンタごと持ってきた。次に、純粋にアンタに興味が湧いた」
思考の渦に巻き込まれる僕をよそに少年は喋くる。先刻僕が口走った言葉に対する答えなのか。いや待て、今この少年は何と言った?
まず――狙ってたものが取れなかった? 鞄のことか? ふと目を落とす。胸にしっかりと例の鞄を抱えていた。だから体が痛かったのか。変に腕に力が入っていたから。
そして次に――興味? 一体どういうことだ? まさか……。この場所が治安が悪いとは聞いていたが。いやそれでもまさか。
「……貞操のき」
「そういう意味じゃねえ」
懸念は言い終わる前に否定された。一つ安心。いやしかし、だったら何に対して興味を持ったのか。こんな面白みの欠片もない僕なんかに。
その思いが顔に出たのか、少年は人の悪い笑みを浮かべた。
「その鞄、そんなに大事?」
ちろりと舌が滑る。血のように赤い舌。鞄を抱える腕に力が戻る。
「はは。ホント大切なもんなのな。何、奥さんからの贈り物?」
僕の左手に光る指輪を目敏く見つけて少年は嘯く。
「アンタが気絶したあとさ、取ろうとしたんよ。なのにアンタ強情っつーか、いっくら痛めつけても放そうとしない。男十人がかりでもだ。すっげえよ、俺びっくらこいた」
左手を開いておどけた顔を飾る。大げさなアクションをとってもやはりその目は淀んだままだ。
「こいつすげえなって。そうゆうわけだから、匿っちゃる」
論理は通っていないが少年の言い分は分かった。しかし、僕にはそんな時間はない。早く出張先に行かなくては。そして何より早く家に帰りたい。
少年を見据える。まだ怖いが、しかし彼は年下の、ろくな教育を受けてきていない子供だ。何とか言いくるめることができれば、ここから逃げ出せる。
「匿うとは……何から?」
「いろいろ。俺みたいな乱暴者とか、だだ漏れ状態の汚染物質とか――こっちは完全には防げないけどさ」
少年は罅の入ったコンクリートに目を遣って悔しそうな表情を浮かべた。
汚染物質――十数年前にこの場所で起こった災害及び事故が原因でこの村は汚染地帯となっていた。村だけでなく隣接する市や町まで危険地帯は広がり、事故が起きた場所を中心に半径およそ十キロの範囲を封鎖した。
住民は殆どが非難したが一部残っていた。望みのない者、諦めた者達が残っていた。彼等は死に絶えたと世間では思われているが、しかし。
現実、汚染されたこの場所で生き続けている人は意外に沢山いるのだ。今僕の目の前にいる少年のように。
「取り敢えず、人間からは守っちゃる。雨露も防げるしね。悪い話じゃないだろ?」
「……厚意は有り難いが」
僕は警戒を解かず鞄をしっかり抱え込んで少年と向かい合う。
「僕はすぐに行かなきゃならない。まだ汚染物質が残っていると聞いたからには急いで病院に行かなければならなくなる。とにかく時間がない。僕を匿うというのなら、外部との境界まで連れて行って欲しい」
恐怖を押さえ込んで早口でまくし立てる。少年はジーンズのポケットから煙草を取り出して一本口に咥えた。
「それは無理だ。それができたら俺等はここに残っちゃいねえ」
同じポケットからマッチ箱らしき物を取り出し、それも咥える。少年は器用にマッチを一本抜き取って一発で点火した。
「境界は基本的に壁で塞がれてる。それぐらいは知ってんだろ? 所々に役人だか研究者だかが入ってこれるように出入り口があるがそこは自衛隊が見張ってる。脱走しようとしたらドン、だ。ホントにここ日本かよって言いたくなるぜ、あれ見ると。何十年前のドイツだよ」
僕は先刻彼に下した評価を撤回せざるを得なかった。意外にと言っては失礼かもしれないが、彼は博識だった。まさか歴史を把握していたとは。
僕の思考も知らない少年は慣れた手つきで煙草に火を移し、マッチ箱と煙草の間から吹き出す僅かな呼気でマッチを消火、箱をポケットに戻していた。一体彼の肺活量はどれだけあるのだろう。
「間違ったとは言えアンタは侵入したってことになる。脱出はまず無理だ。大人しく諦めなよ、旅人さん。アンタまだついてる方だよ。車盗られたぐらいの所で俺に気に入られたんだからさ。その幸運に感謝して、奥さんのことも諦めて――」
「本当に手はないのか?」
諦めたくはない僕は思わず聞き返した。酷い言い方かもしれないが、入れたのだから出られるはずだ。
「気休めにしかならねえが、携帯はつながるぜ。俺の仲間がいろいろいじくって独自のアンテナ増設してくれたから」
奥さんにお別れでもするんだなと言って少年は紫煙を吐き出した。
僕は、それでも――
3
少年の住処を抜け出そうとすること数回。寝台を起き上がった所を引っ捕まえられるることその半分。残りの半分は、階下へ降りる前に引き戻されていた。
この村に迷い込んで数日、僕は一度も外に出ていない。
外の空気が吸いたいと言っても、傷に障ると言われる。その傷をつけたのは何処のどいつだ。
時間ならともかく、日数が経つにつれ僕は諦めを覚えた。具体的に、出張という仕事に。
それでも帰宅することは諦められない。家には彼女が、愛する人が待っているのだ。どんな時も僕を支えてくれる彼女が待っているのだ。
僕は、諦めない。生きて帰る。ここから出て行く。
「いっぺん現実見せた方が良いか?」
ある日少年はそう言ってにやりと笑った。その日、彼は昼間からどこかに出かけていた。罠かもしれないと思ったが、絶好の機会であることに違いはない。
チガウチガウと連呼して走り回る子供の傍を抜け、何度も挑戦した外への扉へと向かう。
階段は崩れかけ、場所によっては一段分鉄骨剥き出しという危なっかしい所もある。明らかに上で走り回っている子供には危険な場所だ。
階段を降り切った所で深呼吸。鞄を抱える腕を片方解いて額を伝う冷や汗を拭う。前後左右ついでに上下を確認して扉へ向かう。足を踏み出した所で――
「――」
微かな音が聞こえた気がした。呼吸の音のようだ。誰かいるのか。僕を見張るようにあの少年に言われたのか。
僅かに聞こえる音を頼りに発信源を探す。外への扉とは反対側に伸びる廊下、昔はマンションか何かだったのだろう、外れかけた扉が並んでいた。
一つ目の扉に耳を当てる。部屋の中に、人の気配を感じた。やはり誰かが僕を見張っているのだ。あの少年か、数日前僕をカツアゲした少年達か。
脅かしてやろうと思ってドアノブに手を掛ける。バカになった蝶番が軋んだ。一気に開け放つ。
部屋の中は――
目を背けていた現実があった。
床に敷き詰められた布に、三人の子供が寝ていた。
いや、三人と言って良いか分からなかった。子供と言って良いか分からなかった。
一際柔らかそうな布に大事に横たえられていたのは、まだ生まれたばかりであろう赤児だった。他に比べれば綺麗な方の布に包まれていたが、そこから覗くのは体の割には太い一本の足。
その隣、扉を開ける音で目を覚ましてしまったか、少女が上半身を起こしていた。しかし彼女の腰から下がない。足はあるが、脚がない。
彼女の反対側、そこには一人、もしくは二人の子供が寝ていた。体は一つだが、頭が二つある。首から二人分の頭が生えていた。
これが、この見捨てられた村の現実。僕達が目を逸らそうとしていた事実なのだ。
僕はやっと気付いた。あの少年はただのチンピラではない。僕の周りを走り回っていた子供も、彼とよく一緒にいる彼の仲間達も、そして彼自身も。十年以上前のあの事故の被害者で、そしてその害を未だに受け続けている。あの少年は、自分だけではなく周りの子達を、そして見捨てられていく子供達を守っていたのだ。
彼の淀んだ目はその生活の中で培われたものだ。世の中の不条理に怒り、しかしそれをぶつける相手はいない。彼はその怒りを動力に、仲間達に力を与えてきたのだ。だから彼は――歪みの中に時折優しさを見せるのだ。
そんな彼が言うことだから、ここから外に戻ることは本当に無理なのだろう。
それでも、僕は。
鞄を抱く。眠たげな少女の目が僕を捉えていた。僕は何とか笑顔を見せようとした。頬が引き攣り、なかなか笑えなかった。
起こしてごめんねと詫びると、少女は屈託のない笑みを浮かべた。
辛いだろうに、彼女はそれでも笑えるのだ。
彼女は今しか知らない。ここの外に広がる世界を知らない。彼女にとってはあの少年の保護下にあるというだけで充分な幸せなのだろう。
僕はゆっくりと扉を閉めた。外への扉に目を遣った。
あの向こうには汚染された街が広がっている。しかしそこを抜けなくては僕は帰れない。
無理だろう。きっと、無理なのだろう。
それでも。
僕はここから出て行く。
僕は、あの少年の傍にはいられない。
この鞄の中を知ったら。僕の真実を知ったら。
彼はきっと――
◆ ◇ ◆
外は光に溢れていた。
そう感じてしまうのはこの数日間、薄暗い室内に軟禁されていたからだ。久々に太陽の光を拝んで、僕の網膜は驚いたのだ。
昔はそれなりに栄えていたのであろうが、今となっては廃墟同然となってしまった街。汚染物質が残っている為だろう、外に人の姿は疎らだった。いや、もしかしたらここに残っている人達がそこまで減っているだけかもしれない。封鎖当時から残っている者達が次々と死に、望みのない街では生殖本能も薄れてしまうのだろう。
と、思っていたのだが。
薄暗い路地から激しい吐息と高い嬌声が聞こえてきた。見遣れば、艶めかしい肌を濡らして悦楽に喘ぐ女がいた。一人でイってる訳ではない。喘がせている男がいる訳で。
僕は先刻上げた彼への評価をマイナス域にまで下げた。マイナスは行き過ぎかもしれないが、何となく裏切られた気分だった。
悪人が良いことをするとその後も良い人に見えてしまうと誰かが言っていたが、あれは嘘だ。良いことをしていても駄目なヤツは駄目だ。
真っ昼間から公共の場で性行為にいそしむ男は、僕を匿うとか抜かしていたあの少年だった。
少年の淀んだ目が僕を絡め取る。埃っぽい女の肌を啄む口元に笑みが浮かんでいた。
まるで僕に見せつけるかのように。
「買春か」
軽蔑を込めた言葉を少年に投げつけた。売春婦の去った路地裏は妙に湿った空気が漂っていた。
少年は右肩を壁に預けて楽しそうに僕を見ている。咥え煙草から紫煙が立ち上っていた。
僕はやりきれない気持ちだった。この数日間で溜まった物を吐き出してしまいたかった。僕はおかしくなってしまったのだろうか。自身を押さえ切れない。――この少年だからだろうか。
「そんな金があるのなら、もっと有意義な使い道を探したらどうだ! それだけ金があるなら、それだけの頭があるのなら、ここから脱出することもできるだろう。あの子供達をもっと良い環境に置くこともできるだろう。あの子達は……君達は」
救われるべきだ。彼等の苦労は報われるべきだ。僕には彼等を助けなければならない義務が――あったはずだ。
「見たんだ、あの子達」
少年は満足そうに頷いた。やはりわざとだったのだ。この少年はあの子供達を、そして街の現状を僕に見せつけようとしたのだ。だから買春も、こんな近くでやっていたのだ。
しかし、何の為に?
「同じだよ。見捨てられた子供達と同じように、あの可哀想な女に施しをくれてやったのさ。別に俺の金じゃないから大した出費じゃねえし」
そういう考えか。納得はできないが理解はできる。しかし待て。『俺の金じゃない』ということは。
手首が軽いことに今更気付く。安物とは言えここでは高価な例の時計がなかった。そして次に胸ポケット。そこに隠していた財布が、ない。
「僕の金か! 僕の時計を売ったのか!?」
少年は笑った。はめられた。やはりこの少年は、僕を匿うと言いながら、しっかりと盗る物は盗っていたのだ。
「はははっ。やっぱアンタ面白ぇな、冗談に決まってんべ? マジんなんなって」
煙草を指に挟んだままその手で僕の肩をばしばし叩く。冗談と言われても、今の僕はこの少年を信じていない。
「言ったろ、人間からは守るって。俺の仲間にも金に困ってるヤツは沢山いる。そいつらに取られねえようにって、俺が預かってるよ、大事にね。だから安心しなって」
信じられない。
少年は相変わらず嫌な笑顔を浮かべている。彼の本意が掴めない。
「加えて言うなら、あの女に施しをくれてやったってのも嘘。どうよ、これで……信じられた)?」
この少年は読心術でも持っているのだろうか。僕は頭を振りながら一歩後退った。
「君の女だとでも……? 彼女は、見るからに」
「一応売春婦だね。そこらの男引っ掛けてやらせて金貰ってる人種だ。そうでもしなきゃ生きられねえからさ」
彼は僕から距離を取るように壁に背を預けて空を見上げた。廃れた建物の隙間から覗く空は外で見るものと何ら変わりはない青空。
「でも俺は彼女を買っちゃいねえ。彼女の方から言い寄ってきたんだぜ?『レアがいいの。お金はあげるから私を抱いて』ってさ。女にそう言われて泣きつかれちゃ、無下に断れねえだろ?」
断れるだろうと思いながら僕はまた一歩下がった。このレアと呼ばれる少年から離れたかった。
「だから買春じゃなくて、売春。たまにやんだよ。俺に夢中な女抱いたり、男に抱かれたり。良い小遣い稼ぎになるしね」
僕を横目で見て彼はどこか寂しそうな表情を浮かべた。そう見えたのは僕にやましい所があるからなのか。鞄を抱える腕が緊張した。
これ以上彼を見ていたくはなかった。僕は更に一歩引き下がろうと足を浮かせた。
その時、遠くから長いこと聞いてなかった重低音が聞こえてきた。数日前までは身近に慣れ親しんでいたはずの音だが今となっては何の音か思い出せない。思考が、彼に対する恐怖に邪魔されているのだ。
音は大した問題ではない。一刻も早くこの少年から離れたい。僕は足を必死に動かそうとする。竦んでなかなか動いてくれない。
少年は僕を横目で見ている。あの淀んだ目で。その眉が顰められて、
「危ない」
襟を掴まれる。少年の左手がいつの間にか僕を捕らえていた。そのまま路地に引きずり戻される。
背後を風と轟音が走り抜けた。
まさか。僕は少年の手を振り切って走り抜けたものを見ようとする。しかし少年の手は離れない。むしろ更に引き寄せられた。
「アンタの車だよ、旅人さん」
至近距離で少年の口が動いた。何を警戒しているのか、彼は頻りに周囲に視線を送っていた。そして更に強く引かれる。僕の顔のすぐ横に、少年の顔があった。
「仲間にアンタの足跡を辿らせてる。あの車をぱくられた所まで見つけた。今はタイヤの跡を辿ってる頃だ」
耳の中に直接声を吹き込まれているようだった。少年の服は埃っぽい臭いがした。
「アンタが入ってきた隙間が見つかれば、もしかしたらそこから出られるかもしれねえ。見張りがいたら俺等が囮になってやる」
何を言っているのか、理解しがたかった。少年の言葉を頭の中で反芻して、漸(ようや)く彼が僕をここから逃がそうとしているのだと気付く。
「車は諦めな。取り返すことは簡単だが逃げる時に邪魔になる。人目につくだろ? 俺等は車の代わりにはなれねえからな」
やっと少年は僕の襟を放した。少年に二度も掴まれた襟は既によれよれになっていた。
「まだ時間はかかるがもうちっと待ってくれ。絶対見つけっから」
少年は不敵な笑みを浮かべていた。自信があるからなのか。僕を励ましているとでも言うのか。
その笑顔は頼もしかった。
彼なら見つけられるだろう。しかし僕はまだ彼を信じてはいなかった。第一、人助けなんかして彼に何の得があるのか。純粋に金を必要としている彼が、一銭にもならない働きなどするはずがない。
とは言え頼りになるのは確かだ。彼はきっと僕が入ってきた隙間を見つけてくるだろう。そして必要とあらば進んで囮役を買って出るだろう。
僕がここを出て行くのに彼は必要だ。
彼を避けたい気持ちはまだあった。しかし帰りたい気持ちが勝った。
僕は鞄から左手を放して、
「……キスされるかと思った」
「口にしてやったろか」
耳に残る妙な感覚を払った。
違う、そんなことがしたいんじゃない。僕は左手を不適に笑む少年に差し出した。頭を下げるのは僕の自尊心が許さなかった。
「――頼む」
「素直じゃねえな」
少年はカラカラ笑って僕の手を握った。
4
ここに来てから一週間が経った。
僕は再び少年の住処に閉じ込められていた。好転したことはと言えば建物内であれば自由に行き来できるようになったことくらいだ。相変わらず外には出させて貰えない。
仕方ないから二階を走り回る子供達や一階で生活する子供達の世話をしている。僕はいつの間に保父になったのだろう。
初めに見た一本足の赤児は、昨日死んだ。他にも、幾人もの赤児が死んでいった。
充分な医療器具もないここでは致命的な奇形児の延命手術も行えない。仮に器具があった所で、医者もいないこの街では適切な処置を施せはしないのだ。
絶望と無力感が僕の心の中で大きくなり始めていた。
数日間同じことをしていると流石に慣れてくるもので、僕は膝が裏を向いている幼児の体を拭いていた。犬猫のように四足歩行するものだから掌や足の裏ばかりが汚れるのだ。日に幾度も洗わないと汚れがこびりついてしまう。言い聞かせても自分ではやらないから拭いてやるしかない。
遊びたくて暴れる子供を押さえながら足の裏を念入りに拭いていると、部屋の前を脚のない少女が横切っていった。彼女の名前は確か――
「――歩美ちゃん?」
声をかけると彼女は僕に顔を向けて笑う。
「名前覚えてくれた、うれしい。タビビトさん、ありがとう」
忘れるはずがない。脚がないのに、体を揺さぶって腕を使って移動しているのに。歩けないのに名が歩美であるなんて、皮肉以外の何者でもない。
「どうしたの?」
割り振られた部屋からは滅多に出てこない彼女が出歩いてるのは珍しい。彼女は話すべきか悩んでいるのか、首を傾げた。
「んー。新しい、オトモダチ?」
「え?」
それだけ言うと彼女はよたよたと動き出し、彼女の姿は僕の位置からは見えなくなってしまった。
僕は暴れる子供を解放して彼女を追いかけた。廊下に出ると、彼女は外への扉に向かっていた。
「一緒に行くよ」
屈んで彼女の頭を撫でると、彼女は満面の笑みを返す。
「ありがとう。じゃぁ、抱っこ」
まだ甘えたい年頃なのだろう。幼い時分に甘やかされなかった所為かもしれない。僕は望み通り彼女を抱き上げた。
外、と訊くとうんと頷く。僕は良い機会だと思って意気揚々と扉に手を掛けた。
鉄の軋む音、汚れた空気が入り込む。光が差し込む。目を刺す刺激に扉を押していた手を翳した。
目が慣れてきた所で再び扉を押すが。
何かにつかえて動かない。僕に抱えられた歩美が僕の腕を叩いて下を指差す。隙間に灰色の布が見えた。
一度彼女を降ろして隙間から腕を伸ばしてそれを探る。布は温かい何かをくるんでいるようだった。
たぐり寄せて位置をずらし、何とか扉を開ける。
置かれていた何かを抱き上げて布を解いていくと、小さな足が見えた。
「赤ちゃん?」
「うん。たまに、置かれてる」
しゃがみ込んで彼女の前で布を解いていく。歩美も協力し、やがて赤児の姿が見えてきた。
赤児には、目が一つしかなかった。
「よく、いる。嫌だって、親、子供捨てる」
歩美は赤児の腕を撫でながら、寂しそうな顔をした。
「わたしも。おなじ」
僕は彼女の頭を撫でた。彼女の髪は細く柔らかかった。
外気は体に障る。僕は室内に戻ろうと立ち上がって扉を開けた。
視界の隅に、何かが映り込んだ。
通行人がいることは何もおかしくない。しかし何かが引っ掛かった。
振り返ると、一人のまだ若い少女が僕らに向かって頭を下げていた。
徐に持ち上がった顔は、涙で濡れていた。
僕の視線に気付くと彼女は身を翻して走り出す。
母親だ。この赤児の母親だ。
怪訝そうに僕を見上げる歩美に赤児を託して僕は彼女を追いかけた。閉じ切らなかった扉の隙間から歩美の何か叫ぶ声が聞こえたが、そんなことに構ってはいられなかった。
赤児の母親は逃げ足が速かった。なまじ土地勘がある分追いかける僕に不利だ。
実際、追いかけて数十メートル、何度目かの角を曲がった所で彼女の姿を見失った。
しつこいかもしれないが、彼女の足が速く、僕はこの辺りの地理を知らないのだ。僕がとろい訳では断じてない。
これ以上は追いかけても無意味だと諦め、帰ろうと辺りを見回して。
「あれ」
正直に言おう。
迷った。
◆ ◇ ◆
『この辺りは治安が悪いからね。絶対外に出んな。オーケー?』
何故よりにもよってこのタイミングであの少年の言葉を思い出すのか。
何の気休めにもならないどころか不安を増大させるだけだ。僕は勘を頼りに路地を歩いていた。
昔は商店街だったのだろう、店舗を守るシャッターは歪み、無駄にセンスの良い落書きに彩られていた。
こんな所通っただろうか。空を見上げるが太陽はほぼ真上で方角を決めにくい。いや、僅かな傾きで分かるのは分かるのだが、そんなことをしても無駄なのだ。僕が戻るべき建物がどっちの方向にあるか自体知らないのだから。
本格的に、ヤバイかもしれない。
背筋を冷や汗が流れ落ちた。
第一に、僕の命が危ない。第二に、部屋に残してきた鞄の中身を見られてしまう。
それは避けなければ。生きて戻らねば、あの少年が戻る前に。
そんなに遠くないはずだ。少し歩いて見つからなければ引き返して別方向を探す。そうすれば見つかるはずだ。見覚えのある景色を必死で探す。
すぐに見つかるはずだと思っていたが、なかなか上手くいかないものだ。
僕は完全に迷ったらしい。
こうなれば人に訊いた方が早いだろうか。あの少年はそれなりの有名人らしいから。
そう思いかけた時。
「お花はいらんか?」
野花を抱えた老婦に声をかけられた。いや、見た目程年は取っていないだろう。恐らくはまだ五十代、下手をすれば四十代かもしれない。
取り敢えず、これはチャンスだ。
「や、これはまた綺麗ですねえ」
全く綺麗ではないのだが。しかし彼女は嬉しそうに破顔した。喜んで頂けたようなので、早速本題を切り出してみる。
「ところでお姉さん、レアって子知ってますか?」
「ああ、レア君か、よく知ってるよ」
掴みが良かった所為か、突然の話題転換にも彼女は嫌そうな顔ひとつしない。これは案外簡単に聞き出せるかもしれない。
「そのレア君のお宅、この辺りにあるはずなんですが、知りませんか?」
「ああ、知ってるよ。こっちだ」
老婦はにこやかに微笑んだまま歩き出した。初めからこうすれば良かった。いくら治安が悪いとは言え人は温かい。
老婦は細い路地に入っていった。そういえばこれくらいの路地を走った気がする。
そのまま、暫く歩いた。
おかしい。
そんなに走っただろうか。必死に追いかけている時と不安になりながら歩いている時とは時間感覚がずれるのだろうか。
「あの、あとどれくらいですかね?」
「もうすぐだ。ホラそこの角を曲がると」
老婦はまた一段と狭い路地に入っていった。
おかしい。
こんな細い路地、僕は知らない。
こんな薄暗い場所、僕は通っていない。
これは、罠だ。
僕は後退した。逃げなければ。良くて強奪、悪くて殺される。それくらいは有り得るだろう、この街では。
「こっちだよ」
「あ、はい」
答えながらも足は退いていく。どこに逃げるべきか、僕は周囲を窺う。どの路地を進めば上手くまけるだろうか。
「こっちだよ」
「――っ」
躊躇(ためら)ったら負けだ。僕は全速力で駆け出した。少しでも油断したら追いつかれる。命はない。
「こっちだってんだろ!」
声が迫ってきた。さっきの老婦だ。振り返るな。走れ。逃げろ。止まるな。走れ。走れ。走れ。
しゅらっ、と鋭い音がした。
空を切る音がした。
「寄越せえぇぇぇ金ぇぇぇぇええぇぇえぇっ!」
殺される。
本能的に命の危機を感じた。
久しぶりに後悔した。この街に迷い込んだことを。
久しぶりに恋しくなった。我が家が、愛しい人が。
この数日間愛しい人のことを忘れていたことに気付いた。僕はこんなに薄情な人間だったのか。
己に失望した。
緊張の糸が切れてしまった。
足が縺(もつ)れる。無様に倒れた。
老婦の足音が近付いている。見ると、小さなナイフをその手に握っていた。
あ、死ぬ。
どこか冷静に感じた。
お似合いかもしれない。僕みたいな酷い人間には。今、ここで死ぬのが――
「それに手出さないでくれるかなあ」
老婦がナイフを僕に向かって振り下ろすと同時に、呑気な声が降ってきた。
視界が白で埋め尽くされる。遅れて赤毛が白に重なった。
――あの少年だ。
どこから現れたのか、僕の目の前に、あのレアという少年がいた。
「あ、あぁ……」
「悪いけどさ、この子俺のお気に入りなの。だからさ」
少年が一歩前に出る。老婦は怯えているのか、じゃり、と後退る音がした。
「今なら許してあげる。去(い)ね」
少年の声が冷え切った。ポケットに突っ込んだままだった左手が老婦に向かって伸びていく。
老婦は悲鳴を上げて走り去った。
虚空に伸びる少年の左手には、銀色に光るジッポが握られていた。
「なあ、旅人さん。これイケてね? ずっと欲しかったんだ。マッチは使いにくくてさ」
振り返った少年の顔は爽やかな笑み。その声に先程の冷たさは残っていなかった。
僕は無駄に頷きながら立ち上がる。
「すまない」
「ん? 何が?」
煙草を咥えながら少年は問う。
「大事な服を、使えなくしてしまった」
「服……って、ああこれ?」
振り返った少年の右袖が、ぱっくりと裂けていた。僕の代わりに老婦のナイフに切られたのだ。
「別に気にすんなって。どうせ使わないところだし」
雑巾にでもするかと言って少年は白いTシャツの袖を引き千切った。紫煙を上げる煙草を挟んだままの左手で。
僕の命の危機を助けた少年は颯爽と歩き出す。その影はどこか不格好だった。
不格好と言うより、釣り合いがとれていないのだ。
レアという少年には、右腕がない。
5
「前はさ、相棒と二人でバカやってたんだ。そいつは逆に左腕がなくてさ。互いに俺はお前の片腕になるとか言って――若いだろ?」
少年の住処への帰り道。僕は少年の後ろについていた。
街にうろつく人々は遠巻きに僕達を見ている。その目に浮かぶは羨望であったり、憧憬であったり、畏怖であったり。
「そいつは右腕だけだったから、ラアって呼ばれてた。センスねえ名前だろ? ライト、アーム。逆に俺はレフトだからレア」
実は彼は寂しがり屋なのではないだろうかと思った。ただ歩いているだけでは寂しいから何か話題を探してこうやって僕に話をする。普段口が寂しいから煙草を吸う。寂しいから群れる。寂しいから子供達を引き取って――
「去年死んだんだ。アイツの場合さ、おかしいのは腕だけじゃなくて――多分神経がさ、やられてたんだ。頭おかしくなっちゃって」
何がおかしいのか少年は笑った。心のこもっていない乾いたものだった。
「壮絶な最期だった。アイツらしい死に様だった――最後に盛大にやり合ったんだ」
彼はあくまで明るい声で喋っていた。その所為で、彼が何を言っているのかなかなか理解できなかった。
「素手勝負専門だったからなあアイツは。刃物持ち出した時にゃあ本気で驚いた。ああこいつもここまでヤキ回ったんだなあって、そん時ようやく踏ん切りがついて」
そこでやっと分かった。その相棒を彼はその手で。
「殺す決心がついたってわけ」
殺したのだ。
「あのばあさんが持ってたナイフさ、アイツが持ってたやつに似てたんだよ。それでね。アイツのこと思い出しちゃって」
少年は手を振っていた。何事かと思ったが、前方に見えてきた少年の家を見つけて合点がいった。半開きの扉から、歩美が顔を覗かせていた。安心したように笑っていた。
「びっくりしたぜ、帰ったらよ、扉開いてんじゃん? しかも歩美が見たことない赤ん坊抱いてるし、なんかぼろぼろ泣いてるし」
少年は僕の肩をぽんと叩いた。
「うちの歩美ちゃん泣かせるなんて良い度胸してるじゃないの、ねえ?」
「え?」
少年は今までになく不気味な笑顔を浮かべていた。これは、またしても命の危機だろうか。
「客の分際で、この!」
「わ、ちょっと、絞まる、首っ」
少年の左腕が僕の首をぎりぎり締めつける。流石に喧嘩慣れしているだけはあって、手加減が上手い。
じゃれ合う男二人を見て歩美は楽しそうに笑っていた。
「見つかったぜ、アンタが入ってきた所」
あまりにもさらりと言われて、危うく少年の囁きを聞き逃す所だった。腕をタップしながら僕は彼を見上げる。
「壁つっても境界一面に立ってるわけじゃない。場所によっちゃ柵だったりあのー、何だ、有刺鉄線? あれだったりするわけだ。まあその一部がさ、見事に破れてて車一台分楽に通れるような隙間ができてたわけ。タイヤの跡も確認済みだ」
見つかったのか。脱出口が。
「アンタあんなとこから来たんだな。狂気の沙汰としか思えねえよ、獣道だぜ?」
「出られるのか?」
少年は満面の笑みで頷いた。悪魔のような影はすっかり消えていた。
「それを早く伝えたくてアンタを捜しに出てきたんだよ。ホントは歩美の傍にいたかったんだぜ? で、さっそくなんだけど」
少年は更に僕に顔を近付けた。いつものことながら、彼はあっさりと僕の領域を侵す。図々しいと言えなくもない。
「今なら俺の仲間がそこに張ってる。俺が確認したところ見張りはいないが、この先現れないとも限らん。てなわけで、今すぐに行くってことで、オーケー?」
いきなりすぎる。
だが、早く帰りたいと思っていたことも事実。
そうだ、早いに越したことはない。
彼女はずっと僕の帰りを待ち続けているのだ。
僕は頷いた。断る理由などない。
帰れる。
やっと帰れるのだ。
僕はまたこの少年から逃げるのだ。
◆ ◇ ◆
「ほい、これが時計な」
「わっ」
宙に浮く時計を両手で包み込む。
「そんでこれが財布っと。一応中身確認して」
「ちょ、と」
時計をはめるのに手一杯で受け取れず、財布は落下。
「それから手帳と、万年筆」
「待て、危なっ」
折角一緒になってたのにわざわざばらして投げられた。手帳は諦め万年筆を正確にキャッチ。
「そんでもって携帯が……」
携帯? 投げるのか? 待て、それは精密機器だぞ。
「それだけは投げるな!」
「あん?」
「いえ、何でもありません」
少年に睨まれては縮こまるしかない。何せ目の前にいる少年は今まで少なくとも一人は殺しているのだ。少年の動きに注意して携帯をキャッチする構えを取る。
「財布良いの? いつまでも転がってると誰かに持ってかれるかもしれないよ?」
それもそうか。僕は進言されるままに財布に手を伸ばし、
「やっぱりここで投げるのか!」
少年が投げてきた携帯を何とか捕らえる。少年は抱腹した。
全く油断も隙もない。仕方ないことかもしれないが。
「これで全部ある? 何か足りない物は?」
財布の中身を確認する。諭吉様は一人いらっしゃった。カード類も揃っていた。本当に預かっていただけらしい。
「大丈夫だ」
階下では歩美が赤児を抱いたまま僕達を待っていた。歩美に抱かれた赤児は頻りに泣いていた。
「タビビトさん、レアと、お出かけ?」
どこか寂しげに僕を見上げる歩美。彼女は感付いているのかもしれない。僕がここを去ることを。
僕はしゃがんで彼女の頭をそっと撫でた。
――彼女もただの被害者で、犠牲者だ。彼女には何の罪もない。
だから彼女を悲しませるようなことは、したくない。
「そうなんだ。ちょっと遠くまで。でもこっちのお兄ちゃんはすぐに戻ってくるからね」
少年に目配せすると、彼もまた屈み、
「このおっさん途中まで送ったらマッハで戻って来るよ。良い子にしてたら、キスしてやっから」
「ヤダ、レア、浮気する」
「浮気じゃないよー。俺はみんなを愛してるんだ」
子供相手に何を言っている。そこは嘘でも歩美が一番好きだと言うべきだろう。
泣き喚く一つ目の赤児を撫でてから僕は立ち上がった。
「じゃあ、またね」
歩美は目を丸くして僕を見上げた。
僕は精一杯の笑顔を見せて、一週間という長かったような短かったような時間を過ごした仮宿を後にした。
「それは酷いよ旅人さん」
先行する少年が横目で僕を盗み見てくる。
「あんな言い方したらさ、歩美は信じちゃうよ? またあんたが戻ってくるってさ」
鞄を持つ手に緊張が走った。
僕は、もうここには戻らない。
あの時、僕はそう心に誓った。なのに。
今こうしてここに戻ってきてしまった。
――三度目はないと思いたいが。
もしかしたらまた戻って来ることになるかもしれない。
その時また僕は彼に会うのだろうか。
三度も、この少年に会わなければならないのだろうか。
もう忘れたいのに――
6
道中、珍しく少年は静かだった。
相変わらず煙草は吸い続けていたが、僕に何も話しかけてこなかった。
去る者にかける言葉などないとでも言うのか。
しかし僕にとってはその静寂は有り難かった。彼とこれ以上親密にはなりたくなかった。
親密になればなるほど、僕は罪悪感に苛まれる。
「そろそろ着くぜ」
久々に彼の声を聞いた。促されるままに前を見れば、疎らな人影と無残に歪んだ鉄線が見えた。その先は林か森か。
自衛隊の姿はなかった。見張りがいないという情報もまだ有効らしい。
「最後に言っとくけど」
少年が振り返った。その顔に表情はなかった。
不気味に感じて僕は足を止めた。海からの湿った風が僕と少年の間を流れていく。
少年はやがて微笑を浮かべた。どこか愁いを帯びた、儚い笑みだった。
「あの一つ目の赤ちゃんさ」
脳裏を歩美が抱いていた赤児の姿が過ぎる。そしてまだ若い少女の泣き顔。
「あの子さ、すぐに死んじゃうんだ」
彼は目的地に向け再び歩き出した。色の脱けた赤茶の髪が風に靡いている。
「目が一つしかないって、つまりは脳の異常なんよ。だから、あの子はそんなに長くない」
彼が何を言わんとしているのか、僕には計り知れない。取り敢えず彼に従って歩みを再開した。
「俺、レアって呼ばれてんじゃん? 最近思うんだ。その通りだなって。ラアにしても、同じくらいの奴等にしても、若いうちに死んでく。どっかにもっと酷い障害抱えてる」
少年は右肩に手を当てた。
「でも俺は、これだけだ。右腕がないだけだ。珍しいくらいに健康なんだよなあ、俺」
僕は鞄を抱えた。しっかりと両腕で、中身を確かめるように強く抱いた。
「レアー! おっそーい! 待ちくたびれた!」「なに、レアだと!」「やっと、到着」「とろい」「あやまれ」「土下座だ」「ド・ゲ・ザ!」
少年の姿を見つけた彼の仲間達が叫び出した。少年は手を振って応える。
「ばっか、お前等! もっと静かにしろ! 見張りの奴等に気付かれたらどーすんだ!」
「あはは、レアが一番声でかい!」「ばれたらレアの所為」「いけないんだー」「責任トレー」
少年の仲間達は笑って走り回る。楽しそうに、幸せそうに。
「あいつ等が頑張って探してくれたんだぜ、ここ。ちゃんと礼言っとけよ?」
言われるまでもない。彼等には感謝している。
「あいつ等も軽い障害で済んだ奴等だけどさ。やっぱり長くねえんだよ。多分――」
二十歳前には半減する、と少年は呟いた。
大人になれない子供達が、ここには沢山いる。
育っても大人として生きられない人達が、沢山いる。
◆ ◇ ◆
僕が入ってきた隙間。隙間とは言っても大きな抜け道だ。三メートル以上に渡って柵が倒れ、鉄線が地面に食い込んでいる。僕はこれを車で突き破ってしまったのだろうか。しかし車には傷はついてなかった気がする。
と言ってもこの場所に迷い込んでから車の外観を見たのは盗まれた時、その一度だけだ。記憶も怪しい。
後ろを見る。見捨てられた街を背に、少年達が並んでいる。危険を冒して僕の為にこの抜け道を探してくれた者達だ。
「有り難う」
僕は素直に礼を述べた。少年達はくすぐったそうに身を捩って苦笑を浮かべた。感謝されることが珍しい体験なのだろう。
僕は右腕のない少年を見る。不敵な笑みを浮かべて、僕を見つめる少年を。
「世話になった」
何を言うべきか、言葉が浮かんでこない。取り敢えず謝るべきだろうか。僕は彼を一つも信じていなかった。だが今僕は五体満足で、車以外はこの手に戻り、無事に家に帰ろうとしている。
彼はとても良い人だった。
見捨てられた街で見捨てられた子供達を守る、良い人に育っていた。
「その……この街を、頼む」
「はっ」
少年は紫煙を吐き出しながら笑った。
「素直じゃねえな」
ポケットに突っ込まれていた少年の手が伸びる。
僕は思い出した。以前にもこんなことを言われた気がする。あの時は、僕から左手を出して――
頼む、と言った。
頼まれた通り彼は僕に逃げ道を見つけ出してくれたのだ。
僕は鞄から左手を放して差し出した。
「有り難う」
少年は僕の左手を握った。
「じゃねえだろ」
「え?」
掴まれた手が、強く引かれた。
足に鈍痛が走る。
視界から少年の笑みが消える。街が消える。空が映る。
背中を強か打ちつけて一瞬息が止まる。思考までもが一時停止する。眼鏡がずれて、焦点が合わない。
「え?」
「え、じゃねえよ。俺がしたかったのは握手じゃねえの」
僕の手首を掴む少年の酷薄な笑みが迫る。胸にのしかかられて息苦しい。僕の腕が嫌な音をたてる。無理に力が加わっているのだ。地味に痛い。
「アンタさ、どんだけおめでたい頭してんの。ただで返すわけねえだろ? それなりの報酬は頂くぜ?」
無機質な音が響く。少年が僕の手首から腕時計を取り払っていく。
「まずはこれな。初めにさ、これ五万だって言っただろ? あれ、嘘。実は十万くらいで買ってくれる奴を、俺は知ってる」
少年の仲間が時計を受け取る。少年は次に僕の胸をまさぐった。
「次は財布。中身は大したことねえけど、まあ仕方ない」
少年から少年へ、財布が渡っていく。
「それから手帳。こっちの方が使える。紙の需要は高いからね」
僕は油断していた。
「万年筆。マニアにでも売るか」
一度全てが返されただけで、彼を信じてしまった。
「携帯。これは高値で売れる」
一銭にもならないことを、彼等がするはずがない。
「勿論服も。あぁ、可哀想だからパンツだけは残してあげるよ。流石にそこまで俺も鬼じゃない」
初めから彼等は僕から搾り取るつもりで僕に近付いたのだ。
「ねえ、旅人ってのはさ。どうしてこうも金になるもんを持ってきてくれるんだろうね?」
至近距離で蠢く少年の唇。真紅の舌。
彼は、僕から全てを剥ぎ取るこの瞬間をずっと楽しみに待っていたのだ。
「ねえ、旅人さん? 俺が本当にアンタを気に入ってるとでも思った? 残念ながら俺が興味持ってんのはその鞄でアンタじゃねえんだよ。ねえいい加減さ、その鞄放せよ」
僕は首を振る。
それはできない。これだけは渡せない。
彼にだけは、見せられない。
「放せよ?」
「……駄目だ」
「――放せって言ってんだろ」
腕が軋む。固めていただけの関節を、可動域以上に曲げ始めたのだ。
「腕折れても良いのか? なあ、優しくしてやってるうちに渡せよ。何もこんな鞄ごときに体傷つける必要ねえだろ?」
痛い。でもこれだけは。
「これだけは……渡せない」
「そうかよ」
ごきり、鈍い衝撃が腕を、体を、頭を、走り抜けた。
痛い。なんてものじゃない。僕の喉は裂けんばかりに声を張り上げていた。息が詰まる。口の中が苦い。血の味がする。真っ赤だ。赤い光。攣る。吐く。熱い。乾く。出る。
「アンタのそういう所が嫌ぇだ。そんなに大事か? テメエの命よりも大事か? 死んでも守るって言う気か? 馬鹿が、死んだら元も子もねえだろうがよ。んなことも分かんねえのか? どんだけ外の奴等は平和ぼけしてんだ? テメエも一度死にかけたんだ、それぐれえは分かんだろ! まだ分からねえか! 帰りてえんだろうが! 生きて帰りてえんだろうがよお前は! 生きようとしろよ、生き延びる為に何を犠牲にすべきかぐれえ分かんだろうがっ!!」
ボキボキと乾いた音が頭に響いた。苦い。酸っぱい。苦しい。
――当然の報いだ。
どこかで僕はそんな声を聞いた。そうかもしれない。いや、そうだ。
彼にならば、これくらいの痛み、与えられて当然なのだ。
足りないくらいだ。命を取られてもおかしくはない。
それでも僕は償い切れない。
僕の罪はこの程度で償える物ではない――が。
痛いものは痛い。
僕は耐えられるはずもなかったのだ。関節を外されることも腕を折られることも、初めての経験だった。
歓声が上がった。痛みにぼやける頭を振って、霞を払う。
何が起こった?
脈と同時に脳を揺さぶる鈍痛、その隙を縫って僕は現状を把握しようとする。
何が起こっている?
視界が晴れる。目の前に醜く歪んだ腕があった。
そしてその腕を抱えるもう一方の腕があった。
「動物の本能は残ってたか。命拾いしたねえ旅人さん?」
鉄線の波を背景に、倒れた杭に腰掛ける少年の左腕には、僕の鞄が抱えられていた。
「危なかったぜ? 次は首折ろうとしてたからねえ俺」
にやにやと笑って、少年は膝に鞄を置いた。
「駄目だ……」
這ってでも彼の元へ行こう、彼を止めようとするも、彼の仲間達が僕の体を押さえつけてしまう。
止めなければ。見られてはいけない。彼にだけは、見られてはいけないのに!
「駄目だ、見るなレア!」
留め具を外し始めていた少年は手を止めて僕を見た。その顔には驚愕が浮かんでいた。
「やっと呼んでくれたね、名前」
「頼む、それだけは……見てはいけないんだ」
「訂正しとくよ」
少年は僕を見つめて微笑んだ。
「気に入ってたのは事実。本当にアンタ自体に興味を持った。純粋にね。面白かったぜ」
カタ……
軽い音を発して、鞄の留め具は外れてしまった。
僕は目を伏せた。
直視できなかった。
あれを彼が見る瞬間を。
彼の目が怒りに染まる瞬間を。
7
「……へぇ?」
ガタンという乱暴な音。僕の鞄が落下した音だ。
恐らく彼の手にはあれが――
「これ……何だろうね?」
僕を押さえつける少年達が息を呑む。
彼等にとっては見慣れない物ではない。だが、鞄に入れて持ち歩く物ではない。
「これさあ……俺の目が、もしくは頭がおかしくなってなきゃだけど」
少年の軽やかな足音が近付く。僕はいまだに彼を見ることができなかった。
彼の手にあれがある映像を見たくなかった。
「赤ちゃんの右腕、のホルマリン漬け?」
振動。顔のすぐ傍に、それが置かれたのだ。
髪を掴まれる。無理矢理顔を上げさせられる。
「ねえ旅人さん? ちょいと気になんだけど」
僕は瞼を固く閉じることで最後の抵抗をした。ただの悪足掻きに過ぎないと分かっていた。それでも、見たくなかった。
「ここに書かれてる数字さ、年だろ? 二〇XX年X月X日、てことだろ? 大体十五年くらい前? この年つったら、まあ何だ? 俺等にとっちゃあ生まれた頃、一般的に言やああの大災害の年だ。何か関係あんだろ?」
少年の声が鼓膜を震わせる。少年の吐息を頬に感じた。また至近距離で喋っているのだろう。
あれを見てもまだいつものように振る舞える彼の神経が怖かった。
頬に圧迫感を感じた。冷たいような温かいような妙な感触だった。
ぴちゃり、頬が濡れた。柔らかい感触を生温い液体が伝えてきた。
暗闇が怖かった。何をされているか分からないのが怖かった。僕は目を開けてしまった。
視界を埋める褐色の液体に満ちたボトル。その中に漂う小さな丸みのある右腕。
頬から圧迫感が消えた。まだ濡れている気がする。
「早く言っちゃえよ。俺、今結構不機嫌なんよ。てっきり国家機密でも握ってんのかとか思ったんだけどさあ。こんなの余程のマニアにしか売れねえっつーの。ちょーっと失望?」
「……いたんだ」
「あん? 何だって?」
「ここに、いたんだ……その日」
僕は気付けば吐露していた。
押さえ込んでおくことができなかった。
全てを吐き出してしまいたかった。
いつかは彼に償わなければならないと思っていた。
その日が来たのだと。
今がその時なのだと。
漠然と、感じた。
「僕はその年、ここで……研究の一環で、原発爆発事故後に生まれた子供達を、見ていたんだ」
十数年前、この場所は災害に次ぐ災害に晒された。
東日本を襲った大地震。それによって首都圏は壊滅状態に陥った。
震源地に近いこの場所には、運悪く原子力発電所が起動していた。地震とほぼ同時に、爆発事故が起こった。どちらが先に起こったのかは分からない。事故が起きた後に偶々地震が起きたのか、地震直後のどたばたで事故が起きたのか、地震によって事故が引き起こされたのか。いずれにせよ放射性物質が大量に漏れ出し、近隣は汚染された。
それが原因で、以来この場所は隔離されている、と言われている。
「レア……君は本当にレアな存在だったんだ」
「今でもレアだぜ?」
少年のくつくつという笑い声が乾き始めた頬を掠めた。
「僕がここに来た時……事故から八ヶ月くらいが経った頃。新生児に先天性の奇形が現れやすかった……少なくとも僕が見た子供達は皆、奇形に限らず、何かしらの異常を持っていた」
レアと呼ばれる少年の顔をまじまじと見つめる。
――あの頃の面影は当然ながら、ない。
「君以外は」
「……へぇ?」
少年はその笑みをより濃くした。
僕の話は現状とは異なる。彼に異常はなかった。しかし今の彼には、右腕がない。
「君は僕が見てきた子供達の中で唯一、健全な状態で生まれた」
「で?」
「……事故だったんだ」
頬を熱い液体が伝い落ちた。
それが自分が流した涙であると気付くのは、もっと後のことだった。
「僕達は君を保護しようとした……希少な存在の君を、変な話だが、外の施設で研究しようとしたんだ」
少年は興味深そうに相槌を打っていた。ただ、無言で。
「事故、だったんだ」
僕は自分でその言葉が言い訳にしか聞こえなかった。実際、言い訳にしているのだ。
「あれは、事故だった! 移送しようとした時に、最大の余震が来て……」
「それで、腕が切れた、と?」
どもる僕の言葉を少年が続ける。髪を掴まれて動かせない首の代わりに瞬きで応えた。
「君の異常は……後天的なものなんだ」
「ははっ」
乾いた笑いを上げる少年。僕の髪を放して右腕が漂うボトルを手にした。
「じゃあ何か? これが、ここだ、と」
おどけた調子で少年は、ボトルを右肩につけて見せた。少年の体に赤児の腕は全く釣り合いがとれていなかった。
「僕達は……逃げた。本来ならば連れて行くべき君を……置いて。できることはしたんだ、でも傷口が、酷くて……」
「あーホントだ。これは酷い。確かにこれは修復不可能だわ」
僕はこの期に及んで言い訳をするのか。
かつての己の腕を、その切断面を眺める少年はへらへらと笑っている。
そんな姿、見ていられなかった。
「すまない」
「?」
やっと言えた。
僕が一番言わなければならなかったこと。
僕はずっと、彼に謝りたかったのだ。
「すまない」
「何が?」
きょとんとした少年の顔。何故謝られているのか本当に理解していないと言いたげな。
「君をここに置いていってしまったこと……君から逃げていたこと……君を……」
「何でアンタが謝んの?」
小首を傾げる少年の髪が揺らめく。眉を顰めて幾度も幾度も、腕がたゆたうボトルで頭を小突いていた。
「悪いのはアンタじゃねえだろ? あえて言うなら自然現象。でも自然を恨んだってどうしようもねえし。なあ、アンタに落ち度があったか? アンタが謝る必要がどこにある?」
「僕は責任を放棄した! 僕には君を……」
「誰が決めた? そんなこと誰が決めた? アンタが勝手に思ってるだけだろ?」
少年はふう、と溜息をついてボトルを投げ始めた。落下するボトルを取る度にパシリと小気味いい音が鳴る。
「なんつーかさ、自分が悪いとかって思ってるの、アンタだけだろ? でもさ、俺は別に現状を憂えてるわけでもないし。むしろ感謝したいくらいだよ、俺をこの街に置いていってくれてさ」
一際大きい音を立ててボトルをキャッチ。そのまま彼はそのボトルに口づけた。口元には例の笑みが浮かんでいた。
「ま。だから何だ。謝るなってこった」
少年は僕の目の前で胡座をかく。ボトルを置いて僕の涙に塗(まみ)れた頬を撫でた。
その手は優しく温かかった。
「サンキュな、俺をここに置いてってくれて。俺さ、こいつ等と連んでるのが楽しくてしゃーないんだよ。外だったらゼッテーこの楽しみ知らんかった」
彼の優しさが痛かった。
「おらお前等いつまで乗っかってんだ、このお方は俺の恩人だぜ? それなりの礼儀を払って扱えってんだ」
気恥ずかしいのか照れ笑いを浮かべて少年は立ち上がった。本当に先程僕の腕を折った少年と同一人物かと疑うほど、今の彼は人間味に溢れていた。
肩の荷が下りた気がした。十年以上背負ってきた荷物が消えて、体が一気に楽になった。
僕は眼前に差し伸べられた彼の手を握った。
8
「本当に良いのか、誰も逃げなくて」
最後に振り返り僕は少年達に訊いた。顔を見合わせる少年達に代わってレアが答える。
「こいつ等はさ、まだここでしか生きられねえんだ。外はこういう奴等に冷たいだろ?」
差別とかさ、と言って彼はカラカラ笑った。
「君は……ここが良いのか」
「ああ。それに、こいつ等守ってやれんの俺だけだしな」
彼の笑顔は頼もしい。それが少年達がレアの元に集まる理由かもしれない。
「そうか……」
「なーにしみったれた顔してんだよ! ホラ、早く行けって。奥さん待ってんだろ?」
少年のローキックが炸裂。僕はよろめき数歩外へと近付いた。
「僕は」
「何だよ? まだ何かあんのか? 最後にチューして欲しいか?」
僕はやんわり頭を振った。
「僕は、君達を――見捨てない」
少年が咥えた煙草から灰がぼろりと落ちた。
「……は?」
「この街を、見捨てない」
僕はここに迷い込んで、この街の現状を見て、すべきことに気付いたのだ。
十数年間避けていたこと。逃げていたこと。それと向き合い、一刻も早く彼等を救わなければならない。
僕等が遅れれば遅れるほど、子供達が死んでいく。
助けたいんだ。あの子供達を。
それを聞いた少年は嬉しそうに破顔した。
後ろの仲間から手帳と携帯を受け取り、僕に差し出した。
「必要になるだろ、こいつ等」
正直驚いた。数少ない金(になるもの)を彼が手放すとは。
「そんだけ自信たっぷりに言うっつーことはさ、それなりにアテはあんだろ? まあ頑張れよ。なるべく早くね」
何せこいつ等には時間がねえんだからよ。彼は仲間達を振り返る。仲間達は恐らくこちらの話を理解してないだろう。全員頭に「?」を浮かべていた。
「必ず、戻って来る」
自分でも恥ずかしいと思いながら、僕はあえてその言葉を口に出した。今度こそ義務を果たすと自分に言い聞かせる為に。
少年はその顔によく似合う人の悪い笑みでもって僕を送る。
「じゃあ、またな、だな」
「また」
見慣れた笑みを網膜に焼きつけて、僕は外へと歩き出した。
「悠々と去ってくぜ」「かっくいー」「ばぁか、急げってえの」「走れ!」「めろす!」
少年達の笑い声に後押しされ、僕は走った。
一時間も走れば街が見えてくるだろう。タクシーでも捕まえてまずは家に帰ろう。
風呂に入って、美味しいご飯を食べたいが僕にはすべきことが沢山ある。
病院に行って治療しなければというのもある。
それよりもまず――いや現実問題治療が先だが――彼等を、あの街を何とかしなければ。
当時の研究者仲間の中にはまだあの街について研究している人もいる。彼等と連絡を取り合えば、或いは――
先のことを考え出した時、何かが引っ掛かった。
違和感。無視できようもない違和感。
何かがおかしい。何かを忘れている。
僕は走る速度を緩めて自分の体を顧みた。手帳と携帯は必要だろうからと返された。少年の人情で服も上着を取られただけで済んだ。鞄の中身も、結局金にならないとかで返された。元々彼の一部なのだから彼に渡しても良かったのだが。
「金……」
そうだ、現金だ。
僕は急ぎたいと言って出てきた。
彼等も納得し、なるべく早くと僕を後押しした。
一番早いのは、盗まれた僕の車を取り戻すことではないか。
多少の危険は冒してでも、車を飛ばせば早く帰ることができる。あのレアという少年は、大きいことをする為なら多少のリスクは厭わないような大胆な所があるように見えた。
それが僕の読み違いだったとしても、だ。
次に早いのは最寄り駅まで行って電車で帰ることだ。電車に乗る為には現金が必要になる。
だがあの少年は――財布は返さなかった。
一銭も僕に返さなかった。
それは何故?
「考え過ぎか」
僕に先を急がせるよりも、自分達の生活を優先する為だろう。現実的に考えた結果だろう。
そう言い聞かせるが、その違和感はなかなか拭い去れなかった。
何かがおかしい。
僕は何かを、見落として――
乾いた破砕音が大気を震わせた。
◇ ◆ ◇
茂みの中で人影が倒れるのを見てレアはヒュウ、と口笛を吹いた。
「流石はプロのスナイパーだ。狙いが正確で何より」
[そこの君達!]
数メートル離れた壁の上の方から拡声器越しの声が届いた。
[今走っていったのは何だ! あんな変装で騙せると思ったか! 何度も言うが、君達が外界に出ることは許されないんだ、いい加減脱出など諦めろ!]
「あっはっは、変装じゃねえっての。そら、みんな逃げろ! 俺等も狙い撃たれっぞ!」
レアの一声で少年達はばらばらの方角へ逃げ出した。壁の上からは威嚇射撃の破砕音。
「だから言ったろ、旅人さん」
走りながらレアは『旅人』の腕時計を取り出し、文字盤に舌を這わせた。
「脱出なんて無理なんだって」
旅人が語る物語 終
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