ジグソーパズルと二つの寓話

桜庭みつみ

          ◇


窓の無い部屋で、彼は黙々とピースを嵌めこんでいた。

灰色のコンクリートが剥き出した床に、ひとつひとつピースをのせていく。パズルで出来た床は、ところどころで虫に喰われたように欠けていた。まだ嵌めこまれていないピースが、あちこちに小さな山になって積んである。

疲労も空腹も、時の流れすら感じないここで、彼はひたすらに地道な作業を続けた。苦ではなかった。時折、獣の牙のようなギザギザのふちから目を離し、彼は完成したパズルの姿を想像した。それが彼のささやかな楽しみだった。

そしてある時、彼が最後のピースを嵌めこむ瞬間がやって来る。小さなピースは、小さな音を立てて、あるべき場所に納まった。

期待に胸ふくらませ――どんなに美しく仕上がっただろう――彼はぐるりとパズルを見渡し、自分の失敗を知った。

完璧であるはずのパズルには、たったひとつだけ、ピースが足りなかった。

部屋を隅から隅まで探し、ポケットの裏を何度も何度も裏返し、彼はとうとう認めざるを得なかった。

ピースは最初から、ひとつ足りなかったのだ。


         ◇ ◇


かつん、とかすかな音を耳が拾う。

足を止めた俺と、前方からやってきた吹奏楽部員たちがすれ違う。金管楽器に反射した夕日が、廊下の壁や天井にちらちらと踊っていた。

呼び止められたような気がして、うしろを振り返る。和気藹々とした生徒たちが角を曲がって姿を消し、廊下には、ソレがぽつんと残されていた。

 ジグソーパズルのピースだ。

廊下に落ちているものは、他に見当たらない。拾い上げ、指先で表面をなぞってみた。つるりとした感触。親指の爪ほどの大きさだ。

自分の持ち物ではなかった。かすかな落下音は部員たちとすれ違う前、すぐ後ろから聞こえてきた。いや、聞こえたと思ったのが気のせいだったのか?

ピースを手のひらに乗せて、しばし迷う。財布じゃあるまいし、職員室に届け出てどうにかなるもんでもないだろう。

適当に投げ捨てようとしたところで、廊下の向こうからやってくるクラスメートに気付いた。クラスメートも俺に気付き、声を掛けてくる。

「よっ、今から帰りか?」

「ああ、まあな」

反射的に、ピースを握った手をポケットに突っ込む。小市民的な罪悪感だ。ゴミはゴミ箱に捨てましょう。ゴミじゃないかもしれないが。

 クラスメートに歩調を合わせて歩き出す。何事も無かったかのように談笑しながら、俺はピースをポケットの奥まで押し込んだ。

あとで、元の場所に戻しておこう。


          ◇


欠けているパズル。彼は途方に暮れていた。パズルが完成しないなど、まるで想像していなかったのだ。

彼はふと思いついて、自分の袖ボタンをちぎり取った。そのボタンを、ピースが欠けた場所に押し当ててみる。当然、合うわけがない。彼の力では空白を埋められない。彼は生まれて初めて、どうしたら良いか分からなくなった。

彼は肩を落とし、パズルをそっと撫でながら思った。ぽっかりと生じた欠落が、なんだかとてもさみしい。


         ◇ ◇


妙な夢を見た。

馬鹿でかい部屋の床一面が全部パズルになっていて、そこに男が一人いた。どうやら、そのパズルが完成せずに困っているらしい。自分の夢ながら、意味が分からん。

パジャマ代わりのジャージから制服に着替えながら、ふと机の上を見る。昨日拾ったピースが、小麦色の朝日を浴びて光っていた。こいつは、どんな絵の一部だったんだろう。

欠けているのは、かなしいことだ。


「じゃーまた明日なー」

「おう」

恋人ができた男というのは、どうしてあそこまで腑抜けになってしまうもんなのだろうか。

周囲の怨嗟の念に気付きもせず、幸せオーラ全開で隣のクラスの女子と一緒に下校するクラスメートの姿を、頬杖をついて見送る。

 横の席のクラスメートその二が、今にも血涙を流しそうな顔で俺に話しかけてきた。

「ちくしょう……なんでオレにだけ春は来ねェんだ?」

「安心しろ、俺にも来てない」

「世の中のカップル全員死んでくんねーかな」

「分かった、分かった」

 分かってねーだろ! とクラスメートその二は俺の机をバシバシ叩きながら、カップルから受ける精神的苦痛について熱弁をふるい始める。いやはや熱心なこった。限りなく生ぬるい気持ちでそれを眺めていると、反応の薄い俺に業を煮やしたように、クラスメートその二はこっちに身を乗り出してきた。

「なあ井上、お前はどう思うんだ?」

そう問われて考える。カップル、というか恋人ってのにそこまで執着する気にはなれない。同年代の連中に比べたら、優先順位が低いんだろう、きっと。コイツの気持ちはよく分からないというのが本音だった。

 けれど俺の口からは、心にもないようなセリフが自動的に滑り出る。

「俺も同意見だな」

 中身なんか無い、空っぽなセリフだ。それでもモテない男子の演説は活気づいた。しかし俺の頭には、いつもの後悔がちらりとよぎる。

 俺は、自分の言葉で喋っているか? 否。やまびこと何も変わりゃしない。

 急にいたたまれなくなって目を閉じた時、凛とした声が耳に飛び込んできた。

「佐々木君、そこ、どいてくれない」

「え? あ、悪ィ……」

クラスメートその二、もとい佐々木は慌てて椅子ごと後ろに下がった。俺は声の主を見上げる。澄んだ黒い瞳と視線がかちあう。一瞬のことだった。

 相手はふいと目を逸らす。流れるような足取りで俺と佐々木の間をすり抜け、教室から出て行ってしまった。その姿が見えなくなった途端、佐々木は大げさに身震いする。

「天城ってさぁ、なーんかおっかないよな。なんつーの? 魔女みてー」

「……まあな」

 天城。凛とした声音が耳の奥に蘇る。

「あれ、そういやお前ら、部活同じだっけ。確か美術部?」

「ああ」

 教室を出たその足で、彼女はすぐさま美術室に向かうはずだ。それが彼女の常だった。


 校舎外へ向かう人の波に逆らって、廊下を奥へ奥へと進んでいく。美術室の扉を開けると、案の定、そこには先客がいた。ちらりと俺の方に一瞥をくれただけで、すぐにキャンバスに向き直ってしまう。

天城舞衣。

閑古鳥が鳴く美術部の、数少ない部員の一人だ。ちなみに総勢二名で、もう一人は俺。どっちも二年生。

彼女は、いつもは流したままの長い黒髪を頭の高い位置で結ぶポニーテールにしていた。絵を描く時のスタイルだ。絵筆を運ぶたび、軽く左右に揺れる。

 俺は自分のキャンバスの脇に荷物を投げ出し、絵の具で汚れた丸椅子に腰を下ろす。俺の定位置は、彼女から机を三つばかり挟んだ場所だ。道具の準備をしながら、そっと彼女の作品を窺う。

それは夕焼けの絵だった。同じ風景が、窓の外にも広がっている。

 彼女は微妙な濃淡をつけた紅や橙の絵の具を、布の上に何重にも何重にも重ねていく。光が画面の奥から溢れてくるような絵だった。

 俺も絵筆を握って描き始めるが、なんとなく意欲が沸かず、ともすれば視線は彼女の絵に舞い戻った。キャンバスと筆とが擦れあう音が一人分、部屋の中に反響する。

彼女の作品には空の絵が多い。晴天だけでなく、暗澹とした曇り空や星月夜も描く。空が好きなのか、そういうテーマの下で描いているのかは知らない。

知らないと気付いたら無性に知りたくなって、思わず、彼女の横顔に問いかけていた。

「空、描くのが好きなのか」

「……なんでそんなこと聞くの」

 不審そうな瞳。彼女がこちらを向くと、綺麗な首すじのラインがさらに際立ってみえることに気付いた。急に落ち着かない気分になって、口ごもる。

「いや、いつも描いてるみたいだからさ」

天城はそれには答えず、止めていた絵筆をまた黙々と動かし始める。完全に失敗したな、と俺がひそかに落ち込んだ頃に、ようやく彼女は口を開いた。

「好き、なわけじゃない。それしか描けないから」

 そして――これはいつも無愛想な彼女としては驚くべきことに――続くセリフには、からかうような色合いが滲んでいた。

「君だって、いつも人ばかり描いてるけど。人を描くの、好き?」

「……」

 描きかけの自作品を見下ろす。

 今描こうとしている絵は、元々は自画像だった。淡い茶色を基調にした自分の周りを、同じ顔の人間たちで取り囲ませている。何を考えてこんな構図にしたのか、今はもう覚えていない。

キャンバスの表面に触れかけ、絵の具が乾いていないのを思い出して、指を引っ込めた。

「俺も、好きなわけじゃない、かな」

 ――人を描くのは、そればかり必死で見つめてきたからかもしれない。周りの人々から逸脱しないように心を割いて、いつしか、俺はそこから抜け出せなくなっていた。

天城が何か呟いたが、俺には聞き取れなかった。聞き返すと、彼女は肩をすくめる。

「私は、君が羨ましい」

「俺なんてろくなもんじゃないさ」

彼女は、再び夕暮れを塗り重ねていく作業に戻った。多分俺は、天城に憧れてる。人のいない世界を、彼女は凛として描く。俺にはできない。

再び訪れた沈黙の中で、ふと、ポケットの中に入れっぱなしだったピースの存在を思い出す。拾った場所に戻しておこうと思って、すっかり忘れてしまっていた。

ピースを夕日にかざしてみると、橙色よりも濃い、茜色に染まっているかのようだった。こいつは、俺みたいに


このピースのように、自分には欠けているところがある。

俺がそう言えば大概の奴は、思春期だねぇ、と言って笑うはずだ。そうやって笑っている奴だって、どこか欠けている。どいつもこいつも、みんな例外なく欠けている。

よくもまあ平気な顔で笑っていられるもんだと毒づく俺もまた、平気な顔で死ぬまで生きていく。途方もなくさみしい人生に違いない。

俺の場合、欠けているのは、きっと「自分」自身だ。


「それ」

「……え?」

 いつの間にか、天城が俺のすぐ隣に立っていた。

 ……なんか、すごい睨まれてる気がするんだが。いや、これは確実に怒った顔だ。え、俺、なんか怒らせるようなコトしたか?

落ち着きを無くしかけた俺は、彼女の次の言葉を危うく聞き逃すところだった。

「それ、どこで見つけたの」

彼女が指さすのは、俺が拾ったパズルのピース。なんでこれに興味を持ったのかは分からないが、とりあえずはホッとする。

「ああ、これか。廊下で拾ったんだ」

「ちょうだい」

「……え、っと、なんでだ?」

一瞬、彼女は言葉に詰まった。理由などあまりに自明すぎて説明できないというように。

彼女はそれからしばらく、考え込むように黙っていた。やがて何かを決めたようにひとつ頷くと、美術室のすみに向かって、すたすたと歩き出す。

美術準備室のドアだ。

ドアノブに手をかけ、彼女は俺を見て、言った。

「来て」


          ◇


ガチャリ、という音に、彼は顔を上げた。


         ◇ ◇


準備室の中は薄暗く、絵の具と溶剤の匂いで満ちていた。

昔の先輩たちの作品やら、埃をかぶった石膏像やらで迷路のようになっている部屋の中を、天城は確かな足取りで歩いていく。

あちこちの角に体をぶつけながら、俺は半ば必死で彼女を追いかけた。そういや、入口脇の画材置場くらいしか利用しない俺と違って、彼女はこの部屋によく入り浸っていたっけ。

天城は部屋の一番奥、さほど大きくもないテーブルの前で待っていた。その隣に立ち、彼女が見ているものを、俺も見下ろす。

沁みるような青が、目の中に飛び込んでくる。テーブルの上に乗っているのは、パズルだ。

――ひとつだけ、ピースが欠けている。

彼女は俺の手からピースを取ると、そっと腕を伸ばした。灰色の空白に、ぴったりと嵌まる。マジかよ。

あまりの偶然に思考が停止しかけた。何度か口をぱくぱくと動かしてから、とりあえずの疑問を押し出す。

「このパズル……天城がやってるのか?」

「ううん、初めて見つけた時から、この状態だった」

呟いて、彼女は額縁を撫でる。細心の注意を払った手つきだった。この作品がとても好きなのだと、言葉にせずとも伝わってきた。

俺の方を向いた彼女の黒い瞳は、薄暗い部屋の中で星のように輝いて見える。

「ひとつだけ、ずっと欠けてたの。今になって君が拾うなんて、信じられない」

「いや、本当に拾ったんだって!」

「そんな焦らなくても、盗ったなんて思ってないよ」

初めて見る、彼女の笑顔。思いがけず、悪戯っぽい笑みだった。

― ―何かが、噛み合った音がした。


          ◆


彼が顔を上げると、今までその存在にも気付いていなかったドアが音も無く開いた。しばらく待ってみても、誰かが入ってくる様子はない。

少しためらった後、彼は半開きのドアに恐る恐る近付いた。そっと外をのぞく。あふれる光にひるみかけた視界の中に、一枚のピースが飛び込んできた。

求める色と形に、彼ははっと息をのむ。

慌てて拾い上げ、さっきまで彼が座り込んでいた場所まで急いだ。ゆっくりと、慎重に、たったひとつの欠落に当てはめてみる。

はたして、それは寸分の狂いもなく空白を埋めた。

とうとう完成したパズルを前にして、彼は喜びとはまた別に、あることを考えていた。パズルは出来上がった。目の前にはドアがある。

(俺はもう、ここから出て行ける)

さっき垣間見た外の景色は、目の前のパズルにとてもよく似ていた。けれどその景色につなぎ目はなく、その色は刻々と変わり続けていた。

彼は、風に揺れるドアを開け放つ。

最果てまで広がる、青空だった。